SNSのタイムラインを眺めていると、時々、胸がざわつくような投稿に出会う。
それは炎上でもなければ、誰かを傷つける言葉でもない。
むしろ、あまりにも素直で、切実な叫びだ。
ブルバだけどまだフォロバされてないよ!って人いたらいいね!下さい!🍑
ブルバ100
[ももか・2024/05/18・https://twitter.com/example/status/123456789]
この一文を見たとき、私は少しだけ息をのんだ。
「ブルバ」とは、おそらく「ブルータス、お前もか」の略だろう。仲間だと思っていたのに、という裏切りのニュアンスを含むネットスラング。この文脈では、フォローしたのにフォローバック(フォロバ)してくれない仲間への、半ば冗談めかした呼びかけだ。
この投稿は、一見すると特定のコミュニティに向けた内輪のノリに見える。しかし、その奥には「私はここにいるよ」「仲間外れにしないで」という、無視されることへの不安と、繋がりを確かめたいという純粋な願いが透けて見える。これは決して特殊な感情ではない。むしろ、SNSを使う多くの人が心のどこかで抱えている、普遍的な寂しさの表れだと感じた。
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正直に言うと、この投稿に過去の自分を重ねてしまった。
私も、SNSという広大な宇宙で、たった一人で声を上げているような無力感に苛まれていた時期がある。
私がSNSを始めたのは、もう10年近く前のことだ。
当時は今ほど誰もが使っているわけではなかった。
それでも、新しい世界への扉が開いたような気がして、ワクワクしながらアカウントを作った。
最初の投稿は、たしか近所のカフェで食べたケーキの写真だったと思う。
「美味しい!」と一言添えて。
誰かが見てくれるだろうか。
いいね、なんてものが付くのだろうか。
スマホを何度も確認した。
通知は、来ない。
数日経っても、私のタイムラインは静かだった。
フォロワーは、現実世界でアカウントを教え合った友人、数人だけ。
彼らも忙しいのか、私の投稿に反応することはほとんどなかった。
私の呟きは、誰の耳にも届かない音のない叫びのようだった。
「今日は天気が良い」
「仕事でミスした。最悪」
「新しい本を買った」
まるで壁に向かって話しかけているみたいだ。
何のために、これをやっているんだろう。
フォロワーが10人にも満たないアカウントで、何を言っても虚しいだけ。
だんだん、SNSを開くのが億劫になっていった。
タイムラインに流れてくるのは、楽しそうな誰かの日常。
たくさんの「いいね」やコメントで彩られた、輝かしい世界。
それに比べて、私のページは色のない、ただの記録だった。
「#相互フォロー」「#いいねした人全員フォローする」
そんなハッシュタグに手を出したこともあった。
一時的にフォロワーは増えた。
20人、30人、50人。
でも、その数字はただの記号でしかなかった。
タイムラインは知らない人の宣伝や、興味のない呟きで埋め尽くされた。
私の投稿への反応は、相変わらずゼロに近かった。
彼らは「数」が欲しいだけで、私の言葉には興味がないのだ。
その事実は、前よりもっと私を孤独にした。
繋がりを求めたはずが、繋がりのないことを、より強く実感させられただけだった。
もうやめてしまおうか。
そう思ったとき、ふと、ある考えが頭をよぎった。
「そもそも、私は誰に届けたいんだろう?」
友人に見てほしいのか?
いや、彼らとは直接話せばいい。
見知らぬ誰かに共感してほしいのか?
でも、どんな「誰か」なんだろう。
ぼんやりとした「誰か」に向けて、当たり障りのないことを呟いても、届くはずがない。
まるで、人のいない海に向かって石を投げるようなものだ。
その日から、私はSNSの使い方を根本的に変えることにした。
それは、ほんの小さな、でも決定的な仕掛けだった。
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仕掛けは、3つ。
まず一つ目。
「誰かのため」を、一切やめた。
「ウケるかな」「いいね、もらえるかな」
そんな下心はすべて捨てた。
その代わり、「これは未来の自分が読んだら面白いか?」という基準だけを設けた。
これは、私のための記録だ。
誰にも読まれなくてもいい。
でも、10年後の私が見返したときに、「ああ、この頃の自分はこんなことに熱中してたんだな」と笑えるような、そんな記録にしようと決めた。
二つ目。
テーマを、異常なまでに絞った。
私の趣味の一つに、古い万年筆の収集がある。
それも、1970年代の国産メーカーの、あまり人気のないモデルばかり。
誰も興味ないだろう。
そう思って、これまでSNSで話したことはなかった。
でも、「自分のための記録」なら、これほど最適なテーマはない。
私は、手持ちの万年筆を一本ずつ、写真に撮り始めた。
ただ撮るんじゃない。
そのペンの製造年、開発の背景、当時の社会情勢。
インクを入れたとき書き味、紙との相性。
なぜ私がこの一本に惹かれたのか。
その万年筆と過ごした時間。
思いつく限りの情報を、偏愛と呼べるほどの熱量で書き連ねた。
ハッシュタグも変えた。
「#万年筆」のような大きなタグは使わない。
「#パイロットエリートS」「#プラチナポケット1972」
そのモデル名、製造年、特徴を、これでもかと具体的にタグ付けした。
誰にも検索されないかもしれない。
でも、もし、万が一、同じペンを探している人がいたら、確実に見つけてもらえるように。
三つ目。
「独り言」の質を、徹底的に上げた。
誰のためでもない投稿だからこそ、手は抜けなかった。
写真は、自然光で何枚も撮り直した。
文章は、何度も推敲した。
専門用語は避け、万年筆を知らない人が読んでも、その魅力が伝わるような言葉を探した。
これはもう、呟きではない。
一本の万年筆についての、短い論文か、あるいはラブレターのようなものだった。
最初のうちは、何も変わらなかった。
いいねは、つかない。
フォロワーも増えない。
でも、不思議と虚しさはなかった。
なぜなら、これは「自分のための記録」だから。
投稿が一つ、また一つと積み重なっていくのが、純粋に楽しかった。
自分の好きなものについて、深く考え、言葉にする。
その行為自体が、私を満たしてくれた。
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変化は、3ヶ月ほど経った頃、突然訪れた。
ある朝、スマホに一件の通知が来ていた。
見慣れないアカウントからの「いいね」だった。
それだけじゃない。丁寧なコメントまで添えられていた。
「このモデルのショート軸、探していました。こんなに綺麗な状態で残っているんですね。分解メンテナンスの話、非常に参考になります」
その人は、フォロワー数千人の、万年筆コレクターとして有名な人だった。
私のフォロワーは、まだ30人そこそこ。
本来なら、交わるはずのない世界の住人だ。
でも、彼は私を見つけてくれた。
私の、誰にも届かないと思っていた独り言を、読んでくれた。
心臓が、ドキドキした。
嬉しくて、何度もコメントを読み返した。
すぐに返信を書いた。
そこから、彼と万年筆に関するやりとりが始まった。
私の知らない知識を教えてくれたり、彼のコレクションを見せてくれたり。
その日を境に、すべてが変わった。
彼が私の投稿をリツイートしてくれたのだ。
「こんなに熱心な人がいたとは」という一言を添えて。
そこからだ。
私のスマホの通知が、鳴り止まなくなったのは。
いいね。いいね。いいね。
フォロー。フォロー。フォロー。
そのほとんどが、フォロワー外の人からだった。
私の知らない誰かが、私の偏愛に満ちた独り言を、次々と見つけていく。
「自分も同じペン持ってます!こんな歴史があったとは知らなかった」
「この記事を読んで、実家の押し入れに眠っていた祖父の万年筆を思い出しました」
「万年筆に興味なかったけど、読み物として面白くて全部読んでしまいました」
コメントは、熱を持っていた。
ただの挨拶じゃない。
私の言葉が、誰かの心を動かした証だった。
「#相互フォロー」で得た空虚な数字とは、まったく違う。
これは、私の「好き」が結んだ、本物の繋がりだった。
フォロワーは、一気に数百人まで増えた。
でも、もう数はどうでもよくなっていた。
たった一人でもいい。
私の言葉を本当に面白いと思ってくれる人がいる。
その事実が、何よりの支えになった。
誰にも届かないと思っていた独り言は、いつしか、小さなコミュニティの中心になっていた。
私はもう、SNSの広大な宇宙で孤独ではなかった。
「1970年代国産万年筆」という、小さな、でも確かな輝きを放つ星を見つけ、そこに集う人たちと出会えたのだから。
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振り返ってみると、私が陥っていた「相互フォロー」や「いいね」を求める心理は、SNSの歴史そのものが作り出したものなのかもしれない。
実は今のSNSにおける相互確認の文化って、インターネット黎明期の「パソコン通信」の名残なんです。
当時は、ごく限られた人しかいない閉じた世界だった。
「草の根BBS」と呼ばれる電子掲示板では、参加者同士がハンドルネームで互いを認識し、ログ(書き込み)に丁寧に返信しあうことで、コミュニティが維持されていた。そこには、「仲間」であることの確認作業が常に存在した。
それがSNSの時代になり、「フォロワー数」や「いいね」という形で可視化された。誰でも繋がれるオープンな世界になったはずが、皮肉にも、私たちはかつての閉じた世界と同じように「仲間の数」を気にするようになった。繋がりが目的化し、見知らぬ誰かからの承認を求めるゲームになってしまったのだ。
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この経験を通して、SNSとの向き合い方には、いくつかのタイプがあることに気づいた。
あなたはどのタイプだろうか。
少しだけ、自分自身の使い方を振り返ってみてほしい。
タイプ1:『壁打ち』専門家
これは、かつての私だ。
誰かに見られている意識がほとんどなく、自分の感情や思考の記録としてSNSを使っている。
タイムラインは、心の動きをそのまま映した備忘録のようだ。
ハッシュタグは使わないか、使っても自分しか検索しないような独特のもの。
誰かから反応が来ると、嬉しい反面、「見られていたのか」と少し驚いてしまう。
このタイプの人は、自分の世界を大切にできる。
ただ、その独り言が本当に誰にも届かないままだと、時に深い孤独を感じてしまうかもしれない。
発信が、ただの「排出」で終わってしまう危険性と、常に隣り合わせだ。
タイプ2:『相互フォロー』巡礼者
冒頭で引用した投稿主は、もしかしたらこのタイプかもしれない。
SNSを使う一番の目的が、人との繋がり、特に「数の上での繋がり」を増やすことにある。
「#相互フォロー」「#いいねした人全員フォローする」といったハッシュタグを駆使し、積極的に他者と交流しようと努力する。
フォロワー数の増減に一喜一憂し、フォロー解除されたことに敏感に気づく。
このタイプの人は、コミュニケーション能力が高く、コミュニティを形成する力がある。
しかし、そのエネルギーが「数の維持」にばかり向かうと、疲弊しやすい。
一人一人の繋がりが希薄になり、結局は孤独感を埋められない、というジレンマに陥ることもある。
タイプ3:『お役立ち情報』サイボーグ
常に「誰かの役に立つこと」を考えて投稿している人。
最新ニュースの解説、便利なツールの紹介、専門分野のノウハウ。
その投稿は、客観的で、整理されていて、非常に有益だ。
自分の感情を出すことは少なく、あくまで情報提供者としての役割に徹する。
インプレッションやエンゲージメント率を細かく分析し、より多くの人に届けるための戦略を練る。
このタイプの人は、多くの人から感謝され、頼りにされる存在になる。
ただ、常に「価値ある情報」を発信し続けなければならないというプレッシャーに晒される。
「役に立たない自分には価値がない」という強迫観念が、SNSを楽しむ気持ちを奪ってしまうこともある。
タイプ4:『観察』するゴースト
自分から発信することはほとんどなく、情報収集や他者の投稿を眺めることをメインにSNSを利用している人。通称ROM(Read Only Member)専。
世の中の動きに敏感で、多様な意見に触れるのが好きだ。
面白い投稿には「いいね」やリツイートで静かに反応するが、自ら言葉を発することは滅多にない。
このタイプの人は、SNSの恩恵を受けながらも、争いや面倒ごとに巻き込まれるリスクが低い。
しかし、膨大な時間を情報のインプットに費やしながら、自分からは何もアウトプットしていないという事実に、ふと無力感を覚えることがあるかもしれない。消費するだけで、何も生み出していないのではないか、と。
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この「いいね」を渇望し、繋がりを確かめ合う私たちの旅は、数年後、どんな景色にたどり着くのだろうか。