必死に毎日更新するのをやめたら、なぜフォロワーが600人まで増えたのか?
かつて、努力は無条件に美しいとされていた。
テレビをつければ、汗と涙で何かを成し遂げる物語が溢れていた。「24時間戦えますか」という言葉が流行語になり、身を粉にして働くことが美徳だと、誰もが信じていた時代。私が子供の頃もそうだった。夏休みの宿題は最終日に泣きながらやるのではなく、毎日コツコツ計画的に進める子が褒められた。徹夜で何かを仕上げることは「頑張った証」として、どこか誇らしかった。
ブログやSNSの世界でも、その価値観は根強く残っていたように思う。
「成功の秘訣は、毎日更新することです」
そんな言葉が、まるで絶対的な真理のように語られていた。量をこなすこと。継続すること。その「必死さ」こそが、読者やフォロワーの心を動かすのだと。私も、その呪文を固く信じていた時期がある。
だが、今はどうだろう。
街を歩けば「働き方改革」のポスターが目につく。定時で帰ることは、もはや悪ではない。むしろ推奨されるべきことになった。人気を集めるインフルエンサーは、完璧に作り込まれたコンテンツだけでなく、寝起きの姿や、失敗談を笑いながら話す。彼らの魅力は、その「必死さ」ではなく、むしろ肩の力が抜けた「自然体」にあるように見える。
毎日更新を頑なに守るアカウントよりも、ふらりと現れて、心に刺さる一文だけを呟いていくアカウントに、なぜか心が惹きつけられる。
完璧な計画のもとに運営されるメディアよりも、運営者の「好き」という感情が暴走しているような、手作り感のある個人のブログに、私たちはつい長居してしまう。
努力の価値が失われたわけではない。
ただ、「努力の形」や「努力を見せることの意味」が、静かに、しかし確実に変わってきている。
なぜ、私たちは「必死さ」に息苦しさを感じ、「楽しんでいる姿」に魅了されるようになったのだろうか。この変化は、一体何を意味しているのだろう。
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その問いを考えていると、昔、深夜に偶然見たあるテレビ番組を思い出す。
若手の陶芸家たちを特集したドキュメンタリーだった。その中に、ひときわ不器用で、必死な青年がいた。彼は、伝統的な名家の生まれで、父親は人間国宝。そのプレッシャーからか、彼の作る器はどれも硬質で、まるで教科書から抜け出してきたような、面白みのないものだった。
番組は、彼が展覧会に向けて大皿を作る様子を追っていた。
彼は設計図を何度も書き直し、土の配合を1グラム単位で計測し、ろくろを回す角度すら定規で測るのではないかというほどの神経質さだった。工房にはピリピリとした空気が流れ、彼は誰の言葉にも耳を貸さない。眉間には深いシワが刻まれ、その目は成功と失敗の二択しか見ていないように見えた。
「完璧なものを作らなければ意味がない」
彼はインタビューでそう呟いた。その姿は、痛々しいほどに必死だった。
だが、展覧会の直前、アクシデントが起きる。
彼が心血を注いだ大皿が、窯の中で割れてしまったのだ。彼は工房の隅で、ただ呆然と膝を抱えていた。その姿は、全ての努力を否定された敗者のようだった。もう時間がない。展覧会には、到底間に合わない。
その時、工房にふらりと現れたのが、彼の師匠である老人だった。師匠は、割れた皿の破片を手に取り、しばらく眺めた後、こう言った。
「これでええんやないか」
青年は顔を上げる。何を言っているんだ、とでも言いたげな、怒りと絶望が混じった顔で。
師匠は続けた。「お前さんはずっと、ええもん作ろうとしとった。けどな、土はそんなこと望んどらん。土はただ、土になりたいだけや。お前さんが力を抜いて、土の声を聞いてやれば、勝手にええ形になってくれる」
そして師匠は、割れた破片を使い、金継ぎの技法で皿を修復し始めた。
それはもはや、彼が目指した「完璧な」大皿ではなかった。無数のヒビが走り、いびつで、不格好な器。しかし、その金色の線は、まるで器の景色のように見えた。失敗の痕跡が、世界に一つだけの模様になっていた。
青年は、その金継ぎされた皿を、ただ黙って見つめていた。
展覧会で、その皿は最も高い評価を受けたという。完璧な円でも、滑らかな表面でもない。失敗から生まれた、偶然の美しさ。力が抜け、諦めた先に生まれた「何か」が、人の心を強く打ったのだ。
私はこの番組を見ながら、SNSで必死に「いいね」の数を追いかけていた自分を思い出していた。
完璧な投稿をしなければ。毎日更新しなければ。フォロワーを増やさなければ。その強迫観念は、あの青年の硬直した指先と、どこか似ていたのかもしれない。本当に届けたいものは、そんな「必死さ」の先にはないのではないか。そんな予感が、胸の中に静かに広がっていくのを感じた。
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思想家の内田樹は、その著書の中で「努力は報われる」という言葉の危うさについて、繰り返し言及している。彼は、この言葉が「努力というコストを支払えば、成功というリターンが保証される」という、市場経済的な発想に基づいていると指摘する。
この考え方に囚われると、私たちは努力が報われなかった時に「裏切られた」と感じ、努力している他者に対しては「あれだけやっているのだから、成功して当然だ」という奇妙な共感を抱いてしまう。
私はこの指摘に触れた時、まさにSNSの世界で起きていることだと感じた。
「毎日更新」という努力をすれば、「フォロワーが増える」というリターンが得られるはずだ。そう信じて疑わない。だから、フォロワーが増えないと「こんなに頑張っているのに、なぜだ」と苦しくなる。そして、毎日更新している人を見れば「あの人は頑張っているから、応援しよう」という気持ちになる。
これは、コンテンツそのものの魅力ではなく、「努力という行為」を評価しているに過ぎない。
内田氏の言葉の裏には、ある重要な前提が隠されているように思う。
それは、「コントロールできないものの存在」だ。
私たちがどれだけ努力しても、他者の心や、時代の流れ、あるいは単なる偶然といったものを、完全にコントロールすることはできない。フォロワーが増えるかどうかは、最終的には自分以外の何かが決めることだ。
「努力すれば報われる」という言葉は、そのコントロールできないものを、あたかもコントロールできるかのように錯覚させてしまう。そして、その錯覚が私たちを「必死さ」という名の檻に閉じ込める。
では、どうすればいいのか。
内田氏は、努力そのものを否定しているわけではない。彼が説くのは、むしろ「贈与」の考え方に近い。リターンを期待せず、ただ与えること。自分が面白いと思うもの、価値があると思うものを、誰かのために、しかし見返りを求めずに差し出す。
毎日更新という「努力」が、もしフォロワーという「リターン」を期待した市場経済的な行為なのだとすれば、それをやめることは、市場から降りることを意味するのかもしれない。
評価経済のゲームから一旦離れ、ただ自分が伝えたいことを、伝えたい時に、伝えたい形で差し出す「贈与」へと切り替える。
すると、不思議なことが起きる。リターンを期待しなかったはずの「贈与」が、思わぬ形で「お返し」として返ってくる。それが、冒頭のnote記事で語られていた「フォロワーが増えた」という現象の本質なのではないか。
コントロールしようとするのをやめた時、初めて物事は自然に流れ始める。
それは、まるで川の流れに身を任せるような感覚に近い。必死に岸に向かって泳ぐのをやめ、ただ流れに浮かんでみる。すると、思いがけず美しい景色が広がる場所にたどり着くことがあるのだ。
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この「必死さ」から「自然体」への移行を、何か身近なものにたとえられないだろうか。
私は、これを「バーベキューの火起こし」に似ていると感じる。
バーベキューに行ったことがある人なら、火起こしで苦労した経験が一度はあるだろう。
初心者がやりがちなのは、「必死に扇ぐ」ことだ。
着火剤に火をつけた瞬間から、うちわや厚紙で、とにかく必死に風を送る。少しでも火が弱まると、もっと強く、もっと速く扇ぐ。煙が目にしみ、灰が舞い上がり、腕は疲れる。しかし、なぜか火は大きくならない。表面の炭が少し赤くなるだけで、中心には全く火が届いていない。必死になればなるほど、酸欠になったり、逆に風で火を消してしまったりする。
これは、まさに「毎日更新」に必死になっている状態だ。
フォロワーを増やしたい一心で、とにかく数を打つ。トレンドを追いかけ、ウケそうなネタを探し、必死に言葉を紡ぐ。しかし、反応は薄い。頑張れば頑張るほど、空回りしている感覚が強くなる。書いている本人も、楽しむ余裕を失っていく。
一方、火起こしの上手い人はどうするか。
彼らは、まず空気の通り道を考える。炭を井桁(いげた)に組んだり、煙突のような形に積み上げたりして、自然な空気の流れ(上昇気流)が生まれる「構造」を作るのだ。そして、中心にある着火剤に火をつけたら、あとはほとんど何もしない。
じっと待つのだ。
うちわで扇ぐとしても、それは燃焼を助けるための、ごく優しく、リズミカルな風を送るだけ。決して必死には扇がない。彼らは知っている。火が育つためには、「時間」と「余白(空気の通り道)」が必要なのだと。
やがて、下の方で小さく燃えていた火が、構造を伝って自然に燃え広がり、炭全体が安定した強い火力を持つようになる。もううちわは必要ない。
この状態が、「自然体」で発信が続いている状態だ。
毎日更新という「必死の風」を送るのをやめる。その代わりに、自分のプラットフォーム(noteやブログ)に、面白いコンテンツが自然に生まれる「構造」を作ることに集中する。
例えば、自分の体験と思考が深く結びついた記事を一本、じっくり時間をかけて書き上げる。あるいは、自分が本当に好きなニッチなテーマについて、熱量高く語るシリーズを始める。そういった「火種」となるコンテンツを、空気の通り道が良いように配置していく。
そうすると、更新していない間にも、その「構造」が勝手に働き始める。
一つの記事を読んだ人が、別の関連記事に興味を持ち、深く読み進めてくれる。その人が、SNSで感想をシェアしてくれる。その感想が、また新しい人を呼び込む。まるで、小さな火が自然に燃え広がり、大きな熾火(おきび)になっていくように。
フォロワーが増えたのは、必死に扇いだ結果ではない。扇ぐのをやめ、火が自然に育つための「構造」と「待つ時間」を用意したからなのだ。
この比喩を通じて見えてくるのは、「コントロールを手放し、システム(構造)に委ねる」という視点の転換だ。
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「毎日更新しなきゃ」「もっと頑張らないと、誰にも見てもらえない」
そう思い詰めてしまう気持ちは、痛いほどわかる。私もずっと、その呪いに縛られていた一人だからだ。SNSを開けば、きらびやかな成功事例ばかりが目に入る。誰もがたくさんの「いいね」をもらい、フォロワー数という分かりやすい数字で評価されているように見える。その中で自分だけが取り残されていくような焦り。それは、孤独で、苦しい。
でも、答えは案外、シンプルなところにあるのかもしれない。
少なくとも私は、必死になるのをやめてみて、ようやくその入り口に立てたような気がしている。
私はこう信じている。発信とは、誰かに評価されるための競技ではなく、自分自身と対話し、その記録をそっと世界に置くような行為なのだと。