その「いいね呼びかけ」、誰にも響いてないかも。僕が空振りをやめた、たった一つのこと

その「いいね呼びかけ」、誰にも響いてないかも。僕が空振りをやめた、たった一つのこと

まだインターネットが、今よりずっと静かで、少し不便だった頃の話をしよう。

ダイヤルアップ接続の音を記憶しているだろうか。ピー、ガー、というあの音。家族が電話を使っている間は、ネットに繋げなかった。テレホーダイの時間が、夜の冒険の始まりだった。

当時のウェブサイトは、個人の手作り感が満載だった。キリ番を踏んだら、BBSに書き込むのが礼儀だった。見知らぬ誰かの日記を読んで、ひっそりと共感する。そこには、小さなコミュニティがあった。

mixiには「足あと」機能があった。誰かが自分のページを訪れると、その記録が残る。それは、ささやかな訪問の挨拶だった。「はじめまして」とメッセージを送るきっかけにもなった。コミュニティに参加すれば、ほとんどの人が温かく迎えてくれた。マイミク申請を送れば、承認されるのが当たり前だった。

Twitterが日本に上陸したばかりの頃も、その空気は残っていた。フォローすれば、フォローが返ってくる。それが暗黙の了解だったように思う。タイムラインに流れてくるのは、知り合いの「なう」だけ。世界はまだ、手のひらに収まるサイズだった。

いつからだろう。この「常識」が、ゆっくりと形を変えていったのは。

フォローは「購読」になった。フォロバは「義務」ではなくなった。タイムラインは、知り合いの呟きだけでなく、ニュースや広告、見知らぬインフルエンサーのおすすめ商品で埋め尽くされるようになった。

私たちは、小さな村から、巨大な都市の交差点へと、いつの間にか引っ越していた。

村の常識で、この交差点を渡ろうとすれば、戸惑うのは当然だ。向こう側から手を振っているのに、誰も振り返してくれない。大声で叫んでも、車のクラクションにかき消される。

昔は当たり前だった「相互の関係性」。今は、特別な努力をしないと手に入らないものになった。

なぜ、こんなにも世界は変わってしまったのだろう。この変化は、私たちに何を問いかけているのだろうか。

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数年前の冬、馴染みのカフェで友人のAと会った。彼はノートパソコンを開いたまま、ため息をついていた。

「なんかさ、もう疲れちゃったよ」

彼の視線の先には、SNSの画面があった。プロフィールには、フォロワー数が4桁で表示されている。立派な数字だ。でも、彼の表情は暗かった。

「フォロワー、1000人超えたんだ。でも、投稿しても、いいねは10もつかない。リプライなんて、ほとんどない。なんか、壁に向かって一人で喋ってるみたいなんだよ」

Aは、当時流行っていた「#ブルバ100」というハッシュタグ企画に熱心に参加していた。「ブルバ」とは「ブルーバッジ」、つまり認証済みアカウントのことだ。同じ目標を持つ者同士で相互フォローし、影響力を高め合おう、という趣旨の企画だった。

「毎日、何十人もフォローしてる。企画のルールだから。でも、フォロバしてくれるの、ほんの数人。こっちがフォローしてる数は、どんどん増えていくのに」

彼はスマホの画面を私に見せた。そこには、彼自身の投稿が並んでいた。

「ブルバ企画参加中です! 固定ツイにいいねお願いします!」
「フォロワー1000人目指してます! 相互フォロー希望です!」
「まだフォロバされてない方、いいねで教えてください!」

その文言は、どれも似たような響きを持っていた。効率的で、機能的。でも、そこにはA自身の「声」がなかった。誰が書いても同じに見える、テンプレートの言葉。

「虚しいよ。こんなことして、何になるんだろうって思う」

彼の言葉が、私の胸に突き刺さった。なぜなら、私にも同じ経験があったからだ。

SNSを始めたばかりの頃、私もフォロワー数を増やすことに夢中になった時期があった。たくさんの「相互フォロー」タグを使い、無言でフォローを繰り返した。フォローバックされると、ガッツポーズをした。数字が増えることが、自分の価値が上がることだと信じていた。

でも、その先にあったのは、Aが感じているのと同じ虚しさだった。

タイムラインには、興味のない情報が大量に流れてくる。自分が投稿しても、誰にも届いていないような感覚。数字上の「つながり」は増えた。でも、心の距離は、むしろ離れていくようだった。

それは、まるで賑やかなパーティー会場の隅で、誰からも話しかけられずに一人で立っているような孤独感だった。周りにはたくさんの人がいる。でも、誰も私のことを見ていない。

Aの疲れた顔を見ながら、私は何も言えなかった。ただ、彼が感じている痛みが、自分のことのようにわかった。私たちは、たくさんの「つながり」を求めてSNSを始めたはずだった。なのに、いつの間にか、数字の呪縛に囚われ、孤独を深めていた。

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なぜ、あの手の「いいね呼びかけ」は、誰の心にも響かずに空を切ってしまうのか。Aや、かつての私のような、切実な思いが込められているはずなのに。

それは、単に「やり方が古い」とか「迷惑だ」という話ではない。もっと深いところに、人間の心理と、現代社会の構造が関わっている。

一つは、「心理的リアクタンス」という心の働きだ。人は、他人から何かを強制されたり、自分の自由な選択を脅かされたりすると、無意識に反発したくなる性質を持っている。「いいねして下さい」という直接的な要求は、相手の「いいねするか、しないか」という選択の自由を奪う行為と受け取られかねない。頼まれれば頼まれるほど、「いや、したくない」という気持ちが芽生えてしまう。これは、天邪鬼な性格とは関係ない。誰にでも備わっている、自己決定感を守るための防衛本能のようなものだ。

さらに深刻なのが、現代の「情報環境」そのものの変化だ。私たちは、かつてないほどの情報量に日々晒されている。朝起きてスマホを開けば、友人たちの近況、世界中のニュース、企業の広告、インフルエンサーのPR投稿が、怒涛のようにタイムラインを流れ落ちていく。

この状況を裏付けるデータがある。株式会社マクロミルが2023年に行った調査によると、SNSを利用する人の約4割が「SNS疲れ」を感じていると回答した。その疲れの原因として特に多く挙げられたのが、「情報量の多さ」や「他人の投稿を見て自分の状況と比較してしまうこと」だったという(2023年8月29日 株式会社マクロミル『SNS疲れに関する調査』:https://www.macromill.com/press/release/20230829.html)。

この調査結果が示しているのは、私たちの「注意」が、もはや希少な資源になっているという事実だ。すべての情報を平等に処理することは不可能。だから、脳は無意識のうちに情報を取捨選択している。自分にとって「重要だ」「面白い」「共感できる」と感じた情報だけを拾い上げ、残りは読み飛ばす。

このフィルターを通過するためには、ありきたりな言葉では不十分だ。「いいね下さい」「フォロバお願いします」といったテンプレート的な呼びかけは、無数の情報の中に埋もれてしまう。まるで、渋谷のスクランブル交差点で、小さな声で自己紹介をするようなもの。誰の耳にも届かない。

私たちの脳は、その他大勢と同じに見える情報を「ノイズ」として処理するようにできている。だから、Aの投稿も、かつての私の投稿も、誰かの意識にのぼることすらなかったのかもしれない。それは、彼の言葉に魅力がなかったからではない。ただ、情報の洪水の中で、見つけてもらうための「印」がなかっただけなのだ。

悪意を持って無視されているわけではない。ただ、認識すらされていない。その事実は、時として、あからさまな拒絶よりも心を深くえぐる。

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「でも、ただ繋がりたいだけなんだ」
「誰かに、ここにいるよって気づいてほしいだけ。認めてほしい。それって、そんなに我儘なことなのかな」

「ずっと一人で頑張ってきた。文章を考えて、写真を撮って。でも、誰からも反応がないと、自分のやってること、全部無意味なんじゃないかって思えてくる」
「もう疲れた。誰かに『見てるよ』って、一言でいいから言ってもらいたい。ただ、それだけなのに」

「……うん。わかるよ。その気持ちは、痛いほどわかる。私も、ずっとそうだったから」

「じゃあ、どうしたらいい? どうすれば、この虚しさから抜け出せる? もう、何を投稿すればいいのかも、わからなくなってきた」

この問いは、画面の向こうの誰かに向けたものではない。私自身の心に向けられた、静かな問いかけだ。この空回りを、どうすれば止められるのだろうか。

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SNSの迷路で立ち尽くしているような、あの無力感。私も何度も味わってきた。だからこそ、その気持ちがよくわかる。でも、安心してほしい。答えは、驚くほどシンプルだ。それは、小手先のテクニックの話じゃない。ほんの少し、視点を変えるだけ。私は、そう信じている。

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