もうダメだ…と諦めかけた情報発信。僕を暗闇から救ってくれた”原点”の話
SNSのタイムラインを眺めていると、時折、眩暈に似た感覚に襲われる。そこはまるで、現代の錬金術師たちが集う巨大な実験室のようだ。「月収7桁達成!」「凡人でもできる再現性の高い方法」「あなたも自由なライフスタイルを」――。誰もが魔法の呪文を唱え、石ころを黄金に変えようと躍起になっている。
ご丁寧に、その秘伝のレシピまで公開してくれる。朝は5時に起き、白湯を飲み干し、太陽に向かって感謝を唱える。瞑想でマインドを整え、読書で知識をインプットし、午前中のうちに最も重要なタスクを終わらせる。その完璧なルーティンを、寸分の狂いもなくこなせば、誰でも成功者になれるらしい。なんとも心強い話じゃないか。まるで、幸福の量産工場だ。
皆が同じ教科書を読み、同じ成功法則を信じ、同じような言葉で「自分らしさ」を語る。その結果、生まれるのは、驚くほど似通った「個性的な成功者」たちだ。彼らは口を揃えて「自分を信じろ」と言う。その「自分」の設計図は、どうやら彼らが販売している有料noteに書いてあるらしい。実に、よくできたエコシステムだ。真顔でそう感心してしまう。
だが、このきらびやかな世界の片隅で、ふと疑問が頭をよぎる。この数字と効率性を追い求めるゲームの先に、本当に私たちが欲しいものはあるのだろうか。「いいね」の赤い通知が光るたびに脳から放出される快楽物質に、私たちはいつからこうも従順になったのだろう。通知が来なければ不安になり、アナリティクスのグラフが下降すれば自己嫌悪に陥る。まるで、画面の向こうのアルゴリズムに飼いならされた、哀れな実験動物のようだ。私たちは、一体何者になろうとしているのだろう。
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先日、旧友から久しぶりに連絡があった。カフェで向かい合って座った彼の顔には、かつての快活さはなく、深い疲労の色が滲んでいた。彼は小さな声で、ぽつりぽつりと話し始めた。
「もう、ダメかもしれない。情報発信、やめようと思ってる」
彼は数年前、大好きなクラフトビールの魅力を伝えるブログとSNSを始めた。最初は本当に楽しそうだった。珍しい銘柄を見つけては子供のようにはしゃぎ、その味わいを独自の言葉で生き生きと描写していた。彼の文章には、ビールへの愛が溢れていた。私も彼の投稿の、熱心な読者の一人だった。
しかし、いつからか彼の発信は変わっていった。「初心者におすすめのビール10選」「これを飲めば間違いない!定番IPA比較」といった、いわゆる「ウケる」コンテンツが増えていった。アクセス数は伸び、フォロワーも増えた。客観的に見れば、それは「成功」だったのだろう。
「最初は嬉しかったんだ。たくさんの人が読んでくれて、コメントもくれて。でも、気づいたら数字ばかり気にするようになってた。今日はPVが少ないな、とか、いいねがつかないな、とか。もっとウケる記事を書かなきゃって、毎日必死でネタを探して。そうしたら、だんだんビールを飲むのが楽しくなくなってきたんだ」
彼の目は、潤んでいた。
「好きだったはずなのに。このビールの複雑な香りを、喉を通る苦味の余韻を、ただ誰かに伝えたかっただけなのに。今はもう、どんな味がするのかもよくわからない。ただの『コンテンツ』にしか見えないんだ。もう、何を発信したいのか、自分でもわからない」
彼の言葉は、鋭い刃物のように私の胸に突き刺さった。それは、他人事ではなかったからだ。数字という名の麻薬。一度その快感を知ってしまうと、もっと、もっとと渇望するようになる。純粋な「好き」という燃料は、いつしか「承認欲求」という不純物だらけのガソリンに置き換えられ、やがて心を蝕んでいく。エンジンが焼き切れ、空回りする音だけが虚しく響く。
私も、同じ道を歩いたことがある。書くことが好きで始めたはずなのに、いつの間にか検索順位とクリック率のことしか考えられなくなっていた。読者の顔ではなく、Googleのクローラーの顔色を伺う日々。言葉は輝きを失い、ただのキーワードの羅列になった。あの時の窒息しそうな感覚を、私ははっきりと覚えていた。
彼の苦しみは、痛いほどわかった。だから、私はありきたりな慰めの言葉をかけることができなかった。ただ黙って、彼の話を聞くことしかできなかった。
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かつて、岡本太郎はこう言ったという。
「他人の評価など、気にするな。自分が評価するんだ。自分の基準で。」
(岡本太郎 『自分の中に毒を持て』 青春出版社)
この言葉は、使い古された自己啓発のフレーズのように聞こえるかもしれない。だが、その裏には、血が滲むような覚悟が隠されている。この言葉の本当の意味を理解するには、少しばかりの深掘りが必要だ。
多くの人がこの言葉を、「他人にどう思われようと、自分は自分のままでいい」という、都合の良い自己肯定の呪文として解釈する。だが、それはあまりにも浅い。岡本太郎が言わんとしたのは、そんな生ぬるい話ではないはずだ。
「他人の評価を気にするな」の裏にある前提は、「ならば、お前は自分自身を厳しく評価できるのか?」という厳しい問いだ。他人が用意した「いいね」や「フォロワー数」といった分かりやすいモノサシを捨て去るということは、自分が裸で荒野に立つことに等しい。そこには道標もなければ、誰かが与えてくれる正解もない。あるのは、自分が立てた基準という、心許ない一本の杭だけだ。
多くの人は、「他人の評価」を捨てたつもりで、実は「世間一般とは違う、俺のセンスをわかってくれる人からの評価」という、よりニッチで面倒な評価軸に乗り換えているに過ぎない。メジャーシーンがダメなら、アンダーグラウンドへ。結局は、どこかの誰かの視線を内面化し、その小さなコミュニティの中で承認を得ようとしているだけだ。評価してくれる対象が変わっただけで、本質的には何も変わっていない。
岡本太郎が言いたかったのは、評価軸そのものを、お前自身が創造しろ、ということではないか。既存のどのモノサシにも当てはまらない、自分だけの価値基準を打ち立てろ、と。それは、誰にも理解されないかもしれない。狂気と紙一重の孤独な作業だ。しかし、それこそが「創造」の本質であり、他人の評価から真に自由になる唯一の道なのだ。
情報発信に置き換えるなら、これは「ウケる・ウケない」という二元論から完全に降りることを意味する。バズるか、スベるか。有益か、無益か。そんな他人が作ったゲームのルールを無視する。そして、ただ自分が「面白い」と腹の底から信じるもの、「美しい」と魂が震えるもの、「これを伝えずにはいられない」と突き動かされるものを、純度100%のまま、何のてらいもなく世界に放り投げる。それが受け入れられるかどうかは、知ったことではない。ただ、放り投げる。その行為そのものが、自分の基準なのだ。その覚悟が、私にあるだろうか。
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「もう全部やめたい。数字を見て、人と比べて、一喜一憂するのに疲れた。これって、ただ逃げてるだけなのかな。甘えてるだけなのかな?」
「でも、今までずっと走り続けてきたじゃないか。寝る時間を削って、必死でネタを考えて。誰にも褒めてもらえない日も、歯を食いしばってキーボードを叩いてきたんだよね」
「うん…でも、もう心が動かないんだ。書きたいことが、何一つ思い浮かばない。空っぽなんだ。頑張ろうとしても、指一本動かせない」
「そっか。本当に、もう空っぽなんだね。じゃあさ、一度、全部手放してみたらどうかな。数字も、他人からの評価も、『やらなきゃ』っていう義務感も、全部」
じゃあ、どうする?
答えは、驚くほどシンプルだった。一度、立ち止まる。いや、「やめる」のだ。誰かに負けたからではない。飽きたからでもない。ただ、自分の心を守るために、一度レースから降りる。戦略的撤退、とでも言えば聞こえはいいが、実際はもっと切実な、ほとんど悲鳴に近い選択だった。
SNSのアプリアイコンをフォルダの奥深くにしまい込み、アナリティクス画面を開くのをやめた。更新が止まったブログを、誰かが「死んだ」と囁くかもしれない。でも、どうでもよかった。今は、誰の声も聞こえない静かな場所が必要だった。
そこには、締め切りもなければ、ノルマもない。誰からの期待も、プレッシャーもない。ただ、穏やかで、退屈な時間が流れていた。最初は、何をしていいかわからなかった。手持ち無沙汰で、ソワソワした。何かを生み出していない自分には価値がないような気がして、不安に襲われた。
でも、数日が経ち、一週間が経つうちに、心のさざ波が少しずつ収まっていくのを感じた。そして、その静けさの中で、私はもう一度、自分に問いかけ始めた。
「本当に、伝えたかったことは何だったんだろう?」
「そもそも、なんでこれを始めたんだっけ?」
答えはすぐには見つからなかった。でも、それでよかった。焦る必要はどこにもない。答えを探すこと自体が、目的になってはいけない。ただ、静かに、自分の内側から何かが芽吹いてくるのを、待つ。それは、種をまいた後の農夫のような、忍耐強い時間だった。
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このまま、数字という名の怪物に魂を食わせ続ける未来と。一度すべてを捨てて、自分の原点に立ち返る未来。数年後、私はどこで、どんな顔をして立っているのだろうか。